静岡県浜松市の医療・介護 - 在宅医療・訪問診療

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あの坂道で出会った心 -在宅医療の物語-

あの坂道で出会った心 -在宅医療の物語- 第1話「教科書には載っていない看護」

私が訪問看護師として働きはじめて、まだ間もない春の日。
やわらかな日差しの中、坂の上に建つ昔ながらの家の前で、少し緊張しながらインターフォンを押した。

「はい。入っていいよ〜。」

初めてなのに私が扉を開けていいのかという戸惑いと同時に、あまりのフランクなその声にどこか安心した気持ちも覚えた。
そっと扉を開け、土間の冷たさを足に感じながら家にあがった。

「初めての子だね」

そうにこやかに話しかけてくれたのが、中村英雄さんだった。

「看護師さんが来るのを楽しみにしてるんだ」

と優しく言ってくれて、私は少し緊張がほどけた。

中村さんは九十歳。
直腸癌の手術を乗り越え、今は寝たきりの奥さんと娘夫婦と暮らしている。
奥さんにも訪問看護が介入している。

家は昔ながらの造りで、部屋の柱には浜松大空襲のときの傷が残り、棚には奥さんが若いころに作った洋服が大切に置かれていた。

懐かしさと優しさに包まれた空間だった。

最初の頃は、私はどこか緊張して、
「何を話そう...」と身構えていた。
でも、中村さんは明るく自分自身のことをたくさん話してくれた。
家の畑仕事のこと、戦争の話、若い頃の仕事のこと。

「妻にはずいぶん迷惑をかけてきたから、今は自分が介護を頑張るんだ」

と照れくさそうに話す姿が、私はとても好きになっていった。

 

春が終わり、初夏、梅雨、夏――

季節が少しずつ巡る中で、私は週に何度かの訪問を重ね、徐々に訪問看護師としての仕事や中村さんの家にも慣れていった。

帰り際には決まって、

「ありがとうね。ご飯はちゃんと食べなよ」

と、まるで家族のようにあたたかく送り出してくれるのがいつもの風景になった。

 

そんなある日、中村さんの体調が悪くなり、布団から起き上がるのが難しくなった。
先輩の訪問看護師は

「ベッドの方が動きやすいですよ」

と勧めていたが、

「これにしたら終わりだ」

と中村さんは頑なに拒んでいた。

院内の訪問看護のスタッフの間でも、中村さんの頑固さにはお手上げの状態だった。
それでも、少しでも安楽に過ごしてもらいたいという思いが募り、私は次の中村さんの訪問に自ら立候補した。

担当が決まった日の夜は、中村さんがどうすれば気持ちを変えてくれるだろうかと何度も考えた。

そして、迎えた訪問当日。

いつもの坂道を上りながら、

「今日は中村さんにちゃんと気持ちが届くといいな」

と、何度も胸の中で言葉を繰り返した。

深呼吸をひとつして玄関の扉を開けると、
いつものように中村さんが布団で横になっていた。

「おはようございます」

と声をかけると、
中村さんはうっすらと目を開け、

「おはよう、山本さんかい」と小さく笑った。

私は上着を脱ぎながら、

「朝はだいぶ涼しくなりましたね」

と話しかける。

「ほんとだよ。布団から出たくなくなるね」

と、中村さんは少しだけ冗談めかして返してくれた。

私は静かに枕元へ座り、しばらく無言でそばにいた。
心の中で何度も言葉を選び直し、ようやく中村さんに向き直る。

「今までたくさん頑張ってきたんですから、どうか頼ってください。」

自分でも驚くほど、声は小さかった。
それでも、私のまなざしだけは逸らさなかった。

しばらく静かな間が流れたあと、
中村さんはゆっくりと顔を向け、

「しょうがないなあ、ついに山本さんにまで言われたら仕方ないね」

と、少し照れたように笑いながら、ようやく折れてくれた。

 

後編へ続く...

 

【「あの坂道で出会った心 -在宅医療の物語- (略:あの坂)」とは?】

この連載は、坂の上ファミリークリニックのスタッフが在宅医療の現場で実際に体験した、
心に残る物語をもとに綴ったエッセイです。

登場するエピソードは、患者さんやご家族との関わりのなかで実際に体験した出来事が中心ですが、個人情報保護のため、お名前やご家族構成など一部に変更・脚色を加えています。
物語の根底にはスタッフのリアルな思いや、患者さんから受け取った温かさと学びがあります。

家で過ごすことの意味、在宅医療のやさしさ、そしてスタッフと患者さん、ご家族の絆。
ささやかだけれど確かな“在宅医療の物語”が、
読んでくださる皆さまの心にも静かに届きますように。

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