こうして中村さんの介護ベットの導入が進み、
これまで以上に、中村さんのためのやさしい時間が流れはじめた。
夏から秋にかけて、
中村さんの体調はゆっくりと、でも確実に弱っていった。
それでも訪問のたびに、
「今日は天気がいいね」「奥さんは大丈夫だった?」
と、変わらず穏やかに声をかけてくれる。
たまに調子のよい日は、昔の話や家族の話もしてくれて、
「今日もありがとう」と、私の手を握ってくれたこともあった。
冬の訪れが近づくころには、
訪問の「いつも通り」が、少しずつ変わり始めていた。
以前のような賑やかな会話は減り、
手を握ったり、窓から射す冬の日差しを眺めたりする、
そんなささやかなやりとりが日々の中心になっていった。
ふとした会話も、奥さんとふたり静かに過ごす時間も、
一日一日がかけがえのないものになっていった。
そして、ある朝――
奥さんのそばで、中村さんは静かに、ゆっくりと旅立たれた。
部屋には、冬の光がやわらかく差し込んでいた。
私はしばらく、その場で手を合わせ、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
中村さんの頬をひとつ撫でてから、
私は小さな声で「ありがとうございました」とつぶやいた。
涙が落ちないように、何度も何度も深呼吸をした。
「在宅で過ごす素晴らしさを教えてくださり、ありがとうございました。
在宅で過ごしたいという方を、これからも支えていきます」
最後にそう声をかけて、そっとお別れをした。
中村さんのお宅に行くのが、私は本当に好きだった。
そこで過ごすひとときには、学びと優しさ、そして日々の幸せがいつも待っていた。
だからこそ今でも、ふと立ち止まって思うことがある。
「中村さんに見られても恥ずかしくない看護師でいられているだろうか」と。
中村さんは私にとって、「在宅で過ごすとは何か」を教えてくれた先生のような存在。
きっと今も、どこかで「がんばってるね」と見守ってくれている。
――中村さんの静かな励ましに背中を押されて、私はまた新しい一日を歩きはじめる。
【「あの坂道で出会った心 -在宅医療の物語- (通称:あの坂)」とは?】
この連載は、坂の上ファミリークリニックのスタッフが在宅医療の現場で実際に体験した、心に残る物語をもとに綴ったエッセイです。
登場するエピソードは、患者さんやご家族との関わりのなかで実際に体験した出来事が中心ですが、個人情報保護のため、お名前やご家族構成など一部に変更・脚色を加えています。
物語の根底にはスタッフのリアルな思いや、患者さんから受け取った温かさと学びがあります。
家で過ごすことの意味、在宅医療のやさしさ、そしてスタッフと患者さん、ご家族の絆。
ささやかだけれど確かな“在宅医療の物語”が、
読んでくださる皆さまの心にも静かに届きますように。