私は今日もいつものように訪問看護から帰ってきたばかりだった。
車を停めてふと、玄関先に掲げられた「坂の上ファミリークリニック」の看板が目にとまった。
夕陽を浴びて、白い板に刻まれた緑の文字がやさしく光っている。
看板を見上げた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
ここで働くようになって六年。けれど、私が「在宅医療」という言葉に初めて出会ったのは、もっと前のことだった。
――そうだ。あれは、”じーじ”のことを思い出す。
私は目を閉じ、あの頃の坂道へと思いを馳せた。
”じーじ”――そう呼んでいたけれど、血のつながりはない。
近所のおじいさんで、母の知り合いでもあり、私たちにとっては大切な家族のような存在だった。
若いころ、じーじは戦地に送られる直前に終戦を迎えたという。
行き先は沖縄だったらしい。
「もしあの時、終戦がもう一日遅れていたら、俺は生きてなかったかもしれんな」
そう言って笑うじーじの目には、いつも優しい光と、どこか遠くを見つめるような静けさがあった。
命を大切にするじーじの生き方は、私たち家族にも自然と伝わっていた。
父を交通事故で亡くしたばかりの頃、寂しさを抱えていた小学生の私にとって、じーじの存在は救いのように温かかった。
大人になってからも、じーじは変わらなかった。
私が二人の子どもを連れて実家に戻ったとき、率先して子守りをしてくれた。
「こんな可愛い赤ちゃんを産んでくれてありがとう」
そう言って、赤ん坊をあやすじーじの笑顔を、私は一生忘れない。
そんなじーじが肺がんを患ったのは、八十二歳のとき。
手術しても三か月で再発し、抗がん剤治療も効かなかった。
医師から「余命三か月」と告げられたとき、私は胸が張り裂けそうになった。
「一人で、どこかの病院や施設で亡くなっていくのかもしれない」
そう思うだけで、涙が込み上げてきた。
母も同じ気持ちだったのだろう。
ある日、母が言った。
「江美、あんたあの坂の上に新しい診療所ができたの知ってる? “在宅ホスピス”って看板が出てたよ」
私は首をかしげた。
在宅ホスピス――当時はまだ耳慣れない言葉だった。
「家で、最期を迎えるってこと?」
母はうなずいた。
「ちょっと気になって病院まで行ったらね、草取りしてる人がいて。声をかけたらすごく穏やかな人でね」
それが、院長の小野先生だった。
「おうちで看取ることもできますよ」と言ってくれたその言葉に、母は背中を押されたらしい。
私はじーじに言った。
「うちで、一緒に過ごさない?」
じーじは驚いた顔をしたあと、少し目を潤ませて笑った。
「……ありがとう。ありがとうなぁ」
それからの日々、じーじは私の実家で過ごすことになった。
初めて我が家に来た夜、じーじは布団に腰を下ろすと、何度も繰り返した。
「ありがとう。こんな幸せなことはない」
その笑顔を見て、私は心の底から思った。
恩返しをするなら今しかない――そう感じた。
ただ、抗がん剤の副作用で味覚障害があり、何を食べても「砂を噛んでるみたい」と笑っていたのが、唯一の残念なことだった。
それでも、食卓を囲むときには必ず「ありがとう、美味しそうだな」と言って箸を持った。
小野先生と坂の上のスタッフは、じーじにも母にも丁寧に寄り添ってくれた。
訪問診療の日は、家の中がふっと明るくなる。
母が診察後に「あの先生はやっぱり優しいね」と微笑むのを、私は何度も見た。
ある訪問診療の日のこと。
縁側で外を眺めながら、じーじがつぶやいた。
「もう一度、釣りがしたかったなぁ……」
その声は風に混じって、かすかに消えていきそうだった。
でも、すぐに小野先生が答えた。
「行きましょう。計画を立てますよ」
「え? 本当に?」
じーじの目が一気に輝いたのを、母が笑いながら話してくれた。
そうして始まった「釣りの計画」。
小野先生は休日を使い、クリニックのスタッフと一緒に、近くの川へじーじを連れて行くことを約束してくれた。
その日を心待ちにしているじーじの姿を、私は少し離れたところから見守っていた。
余命三か月――医師から告げられた期限は、すでに過ぎていた。
それでも、「叶えたい」という思いが、日々の不安を上回っていた。
そして迎えた釣りの日。
その朝、空は青く澄み、川面に光が反射していた。
スタッフに車いすを押されながら、じーじはまるで子どものように目を輝かせていたという。
「魚が跳ねたぞ!」
川の音と笑い声が混じり合い、時間がゆっくりと流れていった。
その日のことを、じーじは帰ってきてから何度も口にした。
「本当にありがとうな。俺は世界一幸せ者だ」
その言葉を聞くたびに、私は胸がいっぱいになった。
そして――、季節がまたひとつ巡ろうとしていた。
じーじの笑顔の裏に潜む、避けられないものが、少しずつ近づいているのを感じながら。
【「あの坂道で出会った心 -在宅医療の物語- (通称:あの坂)」とは?】
この連載は、坂の上ファミリークリニックのスタッフが在宅医療の現場で実際に体験した、心に残る物語をもとに綴ったエッセイです。
登場するエピソードは、患者さんやご家族との関わりのなかで実際に体験した出来事が中心ですが、個人情報保護のため、お名前やご家族構成など一部に変更・脚色を加えています。
物語の根底にはスタッフのリアルな思いや、患者さんから受け取った温かさと学びがあります。
家で過ごすことの意味、在宅医療のやさしさ、そしてスタッフと患者さん、ご家族の絆。
ささやかだけれど確かな“在宅医療の物語”が、
読んでくださる皆さまの心にも静かに届きますように。